Vol.13
 我々の文明において、言葉の果たす役割は非常に大きい。もし文明から言葉を抜き取ってしまうと、構築していた骨組みがなくなり、文明は崩れて瓦礫の山になってしまうだろう。これを逆に考えると、言葉で表現しにくいことは、我々の文明の中には存在しにくいことになる。
 文明と社会は切り離せない。社会という組織は言葉というコミュニケーション手段で成り立っている。社会においても言葉で表現しにくいことは、社会の中では認知されにくい。つまり、言葉というものは、社会においても文明においても便利でかつ重要なものなのだけれど、世界(宇宙)の全て、本当の姿を理解するのを妨げていることになる。なぜなら認知されないものは存在しないことになってしまうからだ。
 文字は言葉を表記するための道具で、言葉の伝達手段でもある。文明を伝達したり、記録するのに文字は使われてきた。したがって文字が残っているところには文明があったことになる。だが、言葉を表記するのに文字を使わなかった文明が存在したら、さらに、言葉さえ使う必要がない文明が存在したとしたら、我々はそのような文明の痕跡はどうやって発見したら良いのだろう?古代メソポタミア、エジプト文明以前には、本当に文明は存在していなかったのだろうか?
明治30年5月1日
 先生と私は、私の実家、国東半島にある穴森神社に居る。国東は古い神が多くいるところで、近くには宇佐神宮もある。我が穴森神社は宇佐神宮よりも古くからあったといわれている。曾祖父は私が子供の頃に他界しているが、祖父はまだ健在なので、神社の口伝については祖父に話を聞いた。
 祖父の話だと、日本人の祖先達は大陸から来たのではなく、トンネルを通って南のほうから来たということだった。ただし、トンネルは大陸まで続いていたらしい。しかし大きな地震があってトンネルの出入り口は埋まってしまい、その跡を標すために神社が建てられたということだった。時代は遥か昔、神代の頃だと聞いていると祖父は言った。場所はもっと南部の方だったらしい。鹿児島か、宮崎か?神社の今の祭神は天ウズ女命ということになっているが、本当は国津神の一人を祀っていたらしい。国津神というのは天孫降臨以前にいた神々のことだ。神奈備神社ということで神社の後ろの三室山が御神体ということになっているが、本来は穴を守っていたわけで、穴守神社が穴森神社に変わってしまったということだった。南から大陸へと続くトンネルの本道は琉球の下を通っていて、九州の出口はどうやら枝道だったらしい。琉球のあたりにはたいへん豊かな国があって栄えていたが、大地震で海の中に沈んでしまい、いまの琉球はその国の山の部分が残ったものだという話で口伝は終わった。最後に祖父は、琉球にあった本道の出入り口はいま、琉球と台湾の間の海中のどこかにあるに違いないと言った。私達の次の目的地は琉球ということに決まった。
10月20日
 Lake Mana に来てだいぶ経つ。ブギーはオレの気遣いに関係なくケロッとしたものだ。失恋が後を引くことなんかないのだろう。やつらは逞しい。
 Lake Mana は標高が高い(1000m)ところにあるので涼しい。湖面は水深があるせいか、深い碧緑色で、早朝、水温と気温の差から湖面が霧のベールで覆われることがある。まさに神秘の湖と呼ぶのに相応しい景色だ。周りは木立に囲まれているが、南側に木立が途切れるところがあり、そこから遥か遠く水平線が臨める。
 Lake Mana の畔には友人のギタリストKiyosu が住んでいる。オレは彼のところに転がり込んで、毎日湖畔でマナを感受すべく瞑想をしていた。瞑想といっても、無の境地を目指すのではなく、言葉を使わない思考の訓練といったようなものだ。感覚を使った思考だ。言葉で表現するのは難しいのだが、感覚的なイメージを繋ぎ合わせて流れを創り、その流れをさらにイメージの中にはめ込む。音楽と似ていると思う。
 音楽は音の流れで構成される。音と音の繋がりは理屈や言葉ではなく、作曲者の感性で決められる。つまり作曲家の感性の流れが一つの音楽となるのだ。音楽にも理論というやつがあるが、これは音楽を分析して出来上がったもので、音楽が理論で出来ているわけではない。音楽を創っているのは感性だ。思考も感性の流れで行われた方が美しい。感性で創られた思考は言葉では表現できないから、何か他の手段を使わないと他人に伝えることは出来ない。オレはまだそれがどんなものかは掴んでいない。音楽家は音を使ってそれをやっている。この世の中で、感性を表現するのに最も成功しているジャンルは音楽だと思う。だからオレはミュージシャンに憧れている。
 我が友 Kiyosu は現役のミュージシャンを離れてからだいぶ経つらしいが、時々プロデュースなどの仕事をして、まるっきり業界から足を洗ったわけではないらしい。しかしここLake Mana での優雅な暮らしは羨ましい。優雅といっても金がたっぷりあって優雅というのじゃなくて、生活が音楽的に優雅なのだ。なんていうのか、暮らしに流れる思考が音楽的というか、音楽的感性で暮らしが流れているというか、どういう言葉で表現すれば良いのかオレの手には余るのだが、一緒に生活していると気持ちの良い曲を聞いているような感じがするのだ。もちろん、オレンジに染まる夕暮れの中でギターなど弾いてくれるときは感動ものなんだが、楽器を持たぬ日常に音楽的な優雅さを感じるのだ。これは彼のミュージシャン魂がそうさせるのか?はたまた、この地のマナがそうさせるのか?オレには分からないが、とにかく羨ましい。だからミュージシャンはモテるんだなぁと改めて思った。