僕の子供のときのもう一つの側面をお話しするために、少しまた時代をさかのぼりましょう。
 僕の母は日系3世です。彼女の家族はカウアイ出身で、彼らはオアフ島の南西のパカラとマカウェリと呼ばれる土地の小さな農場で育ちました。僕の母方の祖父ケンイチ・イタクラは、ハワイで一番のサトウキビの産地であるロビンソン農場で働きはじめました。その農場の支配人は、僕の祖父が他の誰よりも才能があることにどことなく気が付いていました。
 やがて祖父は農場が経営する銀行で働く最初の日本人になり、まもなくアシスタント・マネジャーになりました。1920年代や30年代のハワイのサトウキビ産業における白人中心の封建的なシステムで、このようなポジションに日系人がなること自体驚くべきことだったのです。当時は白人以外はもちろんのこと、白人であってもその多くは選挙権も市民権も持たない二流階級だったのですから。しかし僕の祖父は忍耐強く働き続け、子供たちを大学まで通わせました。

 僕の母はハワイ大学に入学し、そこで僕の父と出会いました。陸軍にいた父は復員兵援護法(訳者注:復員兵に対する大学教育資金や住宅資金の給付を定めたもの)のおかげで、ニューヨークの北部地方の家からパナマ運河を通ってやって来て、パートタイムの陸軍軍人としてハワイ大学で勉強しました。歴史の中でも最も驚くべき奇襲攻撃とされる、あの大日本帝国海軍の真珠湾攻撃が行われた1941年12月7日に、僕の父は任務に就いていました。彼はその後も、その戦時勤務のことを決して忘れたことがありませんでした。やがて父は母と結婚し、サイパン戦線への任務に就いたのです。父は大学を卒業するために帰還し、1946年4月には初めての家族である姉のローラが生まれました。

 僕の祖父母の家は海のすぐ近くで、母の家族はみんな「海の人」だったのです(唯一の例外は母の一番下の妹キミコで、驚くことに彼女は泳げないのでした)。ボートから、磯から、そして素潜りでフィッシングするのが彼らの仕事の後の時間の過ごし方でした。子供時代のフィッシングの思い出が僕にはたくさんあります。両親が男の子2人と女の子1人の僕たち姉弟(もう一人の弟キットは後の1958年に生まれました)を忙しくてなかなか面倒をみられないときは、僕たちはしばしばカウアイへ行かされました。この当時のパカラの思い出は今でも僕にとって特別なものです。
 僕たちは一日中海の中やビーチで過ごし、家からすぐ近くの小さな河口で板に乗って初めてのサーフ・レッスンを受けたのです。僕はその波をとても魅力的に感じたことを覚えています。その河口の底は砂だったので全く安全で、そこでできるカーリング・ウェーブは人がすっぽり入ってしまうほどのものでした。それは波が作る円柱状の空間、即席のチューブだったのです。この経験はおそらく後の僕のサーフ・スタイルの基礎になった最初の出来事だったにちがいありません。
 僕はその場所で何時間でもこの波と戯れ、その一瞬一瞬が大好きでした。叔父のサブロウはすべて自分の手でボートを作ることができる人でしたが、彼は僕のサーフィンへの情熱に気づいてくれ、空の古いシガーボックス(訳者注:葉巻を入れて売る箱)で小さなサーフボードを作ってくれました。それはダークグリーンで‘Kenny-Boy’とペンキで書かれていました。自分の人生でこんなにも誇れるものと出会ったことはありませんでした。もちろんボードの使い方もわかりませんでしたが、そのモデルとなったボードは本来もっと大きかったことは何となくわかりました。そのボードは乗るよりも、どちらかというとサーフィンをしている人のほとんどが退屈だと考えるパドリングをするのに向いていました。そのためそのケニー・ボーイ・ボードは、後に庭のマンゴーの木の下で横になって過ごすときに使われるようになりました。家の前のリーフにフィッシング・ボートを停泊させ、銛や網や竿を使ってオワマ、ハラル、モイ・リなどの魚を捕りました。この完全な半月形のリーフに、やがてサーファーたちが押し寄せることになるとは、その当時はまだ想像すらできませんでした。サーファーたちが現れ始めた頃の海を眺めていた自分をぼんやりと憶えています。しかしある2人の男たちに会うまで、その風景は私にとって何でもないものでした。
 その男たちは僕よりずっと年上で、後によき友人となり、サーフィン仲間となりました。彼らはサーフボードを抱えてその海に現れ、波に向かってパドル・アウトして行きました。彼らは初めてこのスポットでサーフィンにトライしたのでした。そしてみんなを、中でも彼ら自身を驚かせたことは、そこにはサーフィンにとってパーフェクトな波があったことでした。後にこのリーフはカウアイの西側で一番のサーフ・スポットになりました。僕と弟はサーフィンに圧倒され、叔母サチコの生徒のビーチボーイズが誘ってくれたワイキキへ、またサーフィンに連れっていってほしいと、母やサチコに何度もせがんだことを今でも憶えています。

 僕自身の初めてのサーフボードは、若き頃の情熱の産物の一つとして僕のところにやって来ました。僕は「エル・トロ」という、バスタブのような形と大きさのビギナー用のボートを持っていました。僕はハワイ・ヨット・クラブに入っていて、エル・トロ仲間のうちではチャンピオンでした。そのクラブは1953年に造られたアラ・ワイ・ヨット・ハーバーにありました。そしてアラ・ワイ運河沿いに拡大し、それによってアラモアナやガーベッジ・ホールでのサーフ・ブレイクがつくられたのです。

 ある夏のことでした。ニューポート・ビーチから家族と共にやってきた一人の少年に僕は会いました。
 僕は彼に自分のエル・トロを貸し、彼は僕にサーフボードを貸してくれました。僕はボートに飽きていたときだったので、それは僕にはとてもいい取引でした。エル・トロの性能には限界があり、もし転覆でもしたらとても面倒でした。一日中バーに座って飲んだくれているようなヨットクラブの人が助けに来るまで、待たなければいけないのです。だいたい彼らは、自分たちの大切な仕事を邪魔されているかのように面倒くさそうに救助作業をします。そんな彼らに頼らなければいけない自分が情けなくなるのですが、彼らは必ず助けにやってきます。決して積極的ではないことは言うまでもありませんが、当然のように僕たちを助けてくれたのは、彼ら自身も同じように助けられる経験をしてきたからであり、僕たちが将来同じ船乗りになるかもしれないからです。他の理由としては、彼らが日曜日のボートレースで忙しいときに、僕たちは彼らの手伝いをしていたし、狭い場所だったのでだいたい誰とでも僕たちは顔見知りだったからです。

 僕は借りたサーフボードでアラモアナの海に出ました。そこはビギナーにとっては最悪の場所で、上級者たちだけでなく、クーク(訳者注:サーフィンの新米)には全く寛容さを持ち合わせない常連サーファーの集まるところなのです。
 僕は、どうしてもそのサーフボードが欲しいと父を説得しました。今でもそれを大切に残しておくべきだった思うのですが、それはジョー・クィッグ、2フィートのバルサ・ストリンガーでした。持ち主だったその少年がろくに手入れもせず、ノーズはひどくつぶれていたので、とても安く手に入れることができました(僕の記憶では確か30ドルでした)。このサーフボードは僕のサーフィン・キャリアの第一歩であったと同時に、そのおかげで初めてノーズの修理をすることになりました。そしてこの経験は、僕がサーフィンでのキャリアに専念し、やがて職業としていく大きなきっかけとなったのです。
 僕はさらにサーフィンに没頭するようになりました。すると、ビーチにいる普通のサーファーたちは、僕たちのような子供たちか、過去に大いに活躍したような年をとった人たちのいずれかであることに気が付きました。優れたサーファーたちはいましたが、ごく稀でした。あるときふと思ったのです、肉体的にも最盛期でサーフィンの腕前のしっかりしているベストサーファーたちはどこにいるのだろうと。彼らは仕事をしていたのです。一生親に面倒を見てもらうわけにはいかないから、働かなければならない。もし結婚でもしたら、稼がなければなりません。いつもサーフィンをしていて、サーフィン自体がいい収入の得られる安定した仕事になるなんて、不可能であるとは誰もが思うことでした。優れたサーファーになるには時間がかかるし、もっと努力しなければいけないことも自分ではわかっていました。つまり自分が満足できるくらいサーフィンをするためには、学校に行くことすら障害になると感じていました。もちろん当時誰もが学校に行き、高校を卒業したら大学に入りました。僕もそう考えていました。若いときはなかなかストレートに物事を考えることができないし、ただ群れの流れに従ってしまうことがあるものです。だから僕はフルタイム・サーファーになる考えを二の次にし、南カリフォルニア大学に入学することにしたのです。

 サーフィンのことを忘れようという僕の考えは、当時最初の爆発的サーフィン・ブームを迎えていた南カリフォルニアで、1966年の9月の入学と同時に脆くも粉砕されたのでした。僕はその巨大な渦に巻き込まれました。まじめに大学に進んだ道を歩もうと僕は努力していましたが、ブームの渦中にいたことは確かでした。今になってわかることですが、当時の僕にとってはその真っ直ぐで細い道を進む以外に方法はなかったのかもしれません。しかし週末にビーチに行けば、熱心なサーファーたちが溢れているのです。サーフィンを少しは知っているハワイ出身の僕が、地元のサーフ・チームの一つに歓迎されて参加するまでには時間がかかりませんでした。まさに出始めの多くのサーフショップがチームを持っていたのです。新しいボードを格安のサーフチーム価格で買うことができたし、その特典が僕には大きな魅力でした。何人かの友達とメキシコまでサーフィンに行きました。そしてその経験が、自分の人生のターニング・ポイントだったと今でも思います。そのときそこでサーファーになることを決心したのです。
 僕はその夏、実家に帰り、ハワイ大学への編入について家族と話し合いました。当然その場では、本当のねらいを隠しました。もちろん家族は同意してくれました。なぜなら、費用もカリフォルニアに戻って生活するよりずっと安上がりだからです。僕の計画が動きはじめました。僕にはいつの間にかスポンサーが付き、さらにはサーフィン全体に対するまったく新たな理解と、自分とサーフィンの関係におけるもっと深い認識を持つようになりました。新たな真価を認めたことで、僕はサーフィンをもっと楽しむことができ、成功することができるようになりました。サーフィンは、過酷な挑戦を繰り返さなければならないものだということを理解しなければなりません。わずかな結果を出すために多くの努力を強いられるのです。サーフィンには常に幸運と悲運が同時に存在しています。サーフィン自体の素晴らしい経験という幸運と、何か具体的なもの、たとえばある敬意や称賛など、その海からは何も持ち帰れないという悲運。サーフィンには、思い出を形で残しておくための、壁に飾るシカの枝角のようなものはありません。ただあるのは無形の思い出。プライベートで個人的な、時と共に消えていく思い出。サーファーたちだけがこのことをわかっていました。世の中で生きていくための何かにたどり着くようにと、教育費を払い続けてきた親たちにとっては、サーフィンをやっていることなんてただの罰当たりでしかなかったし、特に当時は自分の息子がサーフィンに人生を懸けるなんていう考えを持っていたら、たいへんなことになっていました。ある意味で特にその当時の若者は元来無鉄砲で、自分が情熱を向けているもの以外は何も見えなくなってしまうものだったのです。

 僕はハワイ大学に4年生の半ばまでいましたが、その頃には僕にはサーフボード・ビジネスでまずまずの収入がありました。ある程度満足する収入のある環境が、僕に自分の夢を実現させることを勇気づけてくれました。僕の仲間たちのほとんどは、サーフィン生活を経済的に支えることにおいて、僕より困難な状況にいました。とはいっても、僕の幸せを一番に考えてくれる最も愛する両親や家族たちにいつも支えられてきました。仕事とサーフィンの両方での成功を楽しみつつ、お金に不自由もしなくなっていました。そのため僕は大学を辞め、サーフィンに打ち込んだのです。 1972年の夏、ジャック・シプリーという友人と自分たちのサーフショップ‘ Lightning Bolt Surfboards’を始め、その後3年間、僕たちのビジネスは順調に伸びました。
 1975年にはデューク・ボイドというもう一人の友人と‘the Bolt Corporation’というライセンス会社を始め、自分たちがつくったイメージと精神を世界ブランドに広げるために動き出し、今では当たり前になった世界規模のサーフ・ブランドのパイオニアになりました。79年頃には名声と成功を獲得しはじめましたが、会社の内部ではさまざまな衝突がありました。80年には会社は分裂し、僕は自分の持ち株を売却し、新たなサーフ・スポットに行きました。G-landと僕たちが呼ぶ場所で、ジャワから南東へかなり行ったところにあります。そこで僕は自分の中に存在するものを発見しました。自分が本当に望むものは物質的なものではないこと。そしてお金で買うことのできるものなんて大したものではないこと。お金持ちになるよりいい波に乗っていたい。素晴らしいサーフィンは想像を超えるほどの富であると、信じるようになったのです。

 G-landとバリで、僕たちは今まで経験したことのないようなサーフィンに出会うことができました。
 僕たちはただただサーフィンだけに没頭していたのです。それはサーファーにとっては夢のようでした。そして、決して味わい尽くせないほど豊かなものでした。僕たちはインド洋と恋に落ち、永遠で力強いサーフィンすべての魅力にとりつかれのです。僕は今でもそこに行きます。そしてそこでサーフィンをするたびに、自分の魂に吹き込まれる当時と同じ新鮮な空気を今も感じることができます。
 僕がインドネシアに行きはじめた頃の74年に、僕はノース・ショアからマウイに移りました。僕はマウイで始めたもう一つのLightning Boltショップで働きながら、自分でデザインし建築したハレアカラのスロープにある家で、のんびりと暮らしていました。  僕はオーストラリア、日本、メキシコ、アメリカ本土やヨーロッパなど、いい波を探しに世界中、旅をしました。しかし、これらの国では自分が満足するような波を見つけることができませんでした。マウイ、インドネシアそしてザ・パイプライン、これらに僕のサーフ・スタイルのすべてがあると心に決めました。
 会社を売却した後、すぐにそのお金でザ・パイプラインのビーチにもう一つの家を建てました。その家は5つのベッドルームのそれぞれからサーフ・ブレイクを眺めることができるようにデザインされています。あまりにも急にその場所の人気が上がってしまいましたが、それから10年はこの家の裏庭にあるサーフ・スポットを楽しむことができました。マウイも発展し、マウイの北にウインド・サーフィンという新しいスポーツに理想的な環境があることがわかりました。
 僕は以前ノース・ショアで会ったことがあった素晴らしい女性、トニに再会し、一緒にウインド・サーフィンを学び、それ以来ずっと一緒に暮らしています。僕たちは‘North Swell’というウインド・サーフィンのショップをそのブームの中で始めましたが、僕たちが結婚し男の子が生まれた後、彼女はその店をベビー服のショップに変えました。僕たちの生活は新しい意味と方向を見いだしたのです。トニはもともと南カリフォルニア出身ですが、彼女の家族は家が手狭になって北部のレディングというところに引っ越しました。レディングでのあるクリスマスのことでした。僕たちが考えていたもう一つの新しい方向が突然明確になりました。彼女はスノーボードの用具を借りて、僕を初めて雪の中に連れていきました。初めてスノーボードで雪の上を滑ることに僕たちはまるで子供のように興奮し、この新しいスポーツをもっと知りたいと思いました。大切なものが今では変わりました。僕の息子のアレックスとトニは、僕の人生のすべてです。僕たちは今オレゴンの山の中に住んでいます。僕は自分の視界が広がったと感じています。僕は人生の多くを海と深く関わってきました。しかし今、僕はその対極にある山に住んでいます。山に住むことで、自分という存在における「陰陽」のバランスが以前よりとれていると思うのです。しばらくはサーフィンよりスノーボードをする機会が多くなることでしょう。しかし心の中で自分がサーファーであり続けることをやめたわけではありません。またこれからも決してそれはないでしょう。
 海の波、山の雪。その両方に同じように乗ること。それは自分のインナーセルフへの扉を開くための、瞑想的かつ肉体的マントラです。そしてインナーセルフによって未知なる宇宙の力を実感できるのです。僕は行きたいときにいつでもビーチに行くことができます。今はビーチに行くと、ある意味で前よりも多くのものを波からもらっていると感じるのです。たぶんそれは以前より身近に海がないからかもしれません。僕たちが海の近くに戻ったら、その時に忘れていたものを見つけるかもしれません。でもしばらくは、今いるところで与えてもらえるものをいただくことにします。波はあなたのすぐ近くにあります。そして波はいともたやすくあなたの精神を癒してくれます。僕たちの多くは、自分の精神に心を向けることをあまりしません。僕たちの心と体に関わっている物質社会は、ストレスと健康のことだけを扱うだけでも忙しそうです。できるだけ自分の内面を見つめる時間をつくりましょう。あなた自身の魂にある宝物は、この世の富より貴重なものです。そしてそれはすべてあなたのものですから、好きなだけ手に入れることができます。この世の中があなたに重くのしかかるようなことがあるときは、思い出してください。もしあなたが海の近くにいるならば、あなたを素早く癒す方法があるということを。ただ海に入り、あなたに流れ込む海のエネルギーに身を任せてください。必ず後でいい気分になれます。一度試してみてください。


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Gerry Lopez