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毎夏、クイーンズ・サーフ・ビーチに行くことが家族の恒例でした。そこで親戚たちと会い、一日中ピクニックをして楽しみ、疲れ果てて砂まみれで帰り、翌日もまた同じようなことを繰り返すのです。僕の父はホノルル・アドバタイザー紙という朝刊紙のはえぬきの記者で、朝刊に間に合うよう夜に仕事をするので、昼には自由な時間がありました。母は教師だったので、僕たちと同じように夏休みがありました。だから家族は、毎日昼間はビーチで過ごしました。子供時代は、それが毎年の夏の過ごし方でした。
ビーチの名前にまでなったような昔のハワイアンたちは、どのような夏を過ごしたのだろうと思うときがあります。僕たちと同じように海で遊んだのだろうかと。ビーチからすぐのところに有名なパブリック・バス・サーフスポットがあり、西にはボディ・ボーダーやパイポ・ボーダーたちがアシカやイルカのように波に乗っているザ・ウォールがあり、東にはナタトリウムという海水プールがあります。そのプールは、あの有名なオリンピックの金メダリストでもあるデューク・カハナモクが水泳を始めたところでもあり、そのちょうど外はビッグ・サーフ・キャッスル・ブレイクでした。
ザ・ウォールのさらに西に行くとクイーンズ、ベイビー・クイーンズ、カヌー・サーフ、そしてパパ・ヌイ・サーフ・ブレイクス・オブ・ポピュラーズ、ナンバー・スリーズ、ナンバー・フォーズ、さらにその先にはカイザーズ、ロックパイルズ、アラモアナ・ボウルズ、ガーベッジ・ホールなどの上級者向けのサーフスポットがあり、アラモアナ・ビーチの前からシャーク・ホールとポイント・パニックまでとその脇のケワロ・バシン海峡の大きなサーフブレイクは、クイーンズやカヌーのように穏やかなものと違って、海岸から遠く離れたところでブレイクするため難しいのです。もっとも僕たちの時代はクイーンズ・サーフ・ビーチとザ・ウォール以外ではあまりサーフィンが盛んではありませんでした。僕の3〜4歳から12歳くらいまでは、このクイーンズ・サーフ・ビーチが僕たちの生活そのものでした。
毎週日曜の夜、ルーアウ(訳者注:余興の伴うハワイ料理の宴会)が観光客用にそこで催され、その準備をしている午後には、僕たちはイームー(訳者注:焼け石で料理を作る穴)などその儀式的なものにいつも夢中になっていました。その穴に豚を入れ、土をかぶせて調理するのです。そして豚を取り出した後で、僕たちは豚を縛ったワイヤーのまわりに残っているおいしいかけらをこっそりいただくのです。僕の家族や親戚たち、友人たちに少しお酒が入り、いつもより遅くそこに行っても、ルーアウの後の楽しみがありました。観光客たちが帰り料理が片づけられる前に、僕たちは彼らが残したポイ(訳者注:ハワイの有名なタロイモ料理)とハウピア(ココナッツ・プディング)など、現地の人以外はほとんど食べないものをいただくのです。当時の思い出は今でも忘れられません。
僕の叔母ミチコも教師でした。彼女の生徒のなかにビーチボーイズがいてミチコや母を誘い出し、レンタル・サーフボードを借りてサーフィンを楽しんでいました。僕はまだ10歳、弟は8歳でした。僕たちが向かったあの初めての波のことを、僕たちは今でも忘れることができません。ベイビー・クイーンズのバスタブの水のように暖かい海水を横切り、波をとらえたときの感動は決して忘れられないものです。弟は、僕より強くそう思ったにちがいありません。なぜなら彼の友達の父親がサーファーだったこともあり、2年後には自分のサーフボードを手に入れたのですから。
そのボードはバルサ材でできていて、あまりの重さにひとりで運ぶのは難しいくらいのものでした。後に父が彼のために発泡スチロール製のボードを新聞社の友人に探してもらい、そのおかげで彼のサーフィンはもっと楽になりました。
僕は、リトルリーグでの野球やヌイ・バレーの家の近くで魚を突いて捕るほうが面白く感じていました。弟のビクターのボードを借りてやったクイーンズ・サーフでの最初のサーフィン経験は、少し遅かったのです。ボードが僕の頭に当たり、数針縫うケガ(その後も何かとケガをしがちだった僕なのですが、このケガはその後の数百針の歴史の第一歩でした)のためにさらに2〜3年サーフィンから遠ざかり、その間僕は野球と読書(僕は本の虫でした)に夢中になったのです。
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