ジェリー・ロペス レジェンド・サーファー
1948年 米国ハワイ生まれ。
14才でハワイ州ジュニアチャンピオン、1972年にはマスター・オブ・パイプライン受賞。
その固有のスタイルとマインドで、世界中のサーファーから『波の上で瞑想をするサーファー』、あるいは『神』とさえ呼ばれている伝説のサーファー。1999年には、全米にて、SIMA(Surf Industry Manufacturers Association)主催の、海とその環境に最も貢献した人物に贈られるアワード『WATERMAN OF THE YEAR '99』を 受賞。
現在はオレゴンの山中に居をかまえ、大自然の中のスノーボードも堪能している。


 僕は、太平洋をいつもすべての海の中の母だと考えています。僕の両親は海の近くに住み、海への愛だけでなく海との精神的な絆も教えてくれました。僕が海の近くで生まれたことは自分の運命だと思っています。僕の子供時代は、スイミングやフィッシングから単なる水辺の悪ふざけにいたるまで、海に関わる数えきれないほどの経験でいっぱいです。さまざまな経験をすることで、海の魅力が僕の中でますます大きくなり、目の届く範囲で子供たちがいつも危険のないように注意をしていることは、限界があると両親たちは感じていました。そのため私の姉のローラ、弟のビクター、そして僕をサカモト・コーチのもとへスイミングの練習に通わせるようにしました。
 サカモト・コーチは、危険なモロカイ海峡を泳いだ最初の人キオ・ナカマなど、ハワイの偉大なスイマーたちのトレーナーとして有名な人でした。彼のもとで僕たちは水と一つになる基本を学びました。僕の初めての水泳大会の話を母はよくしてくれました。僕はいつも泳ぐのが一番遅く、他の子たちがプールからあがり体を拭いているのに、それでも夢中で終わりまで泳ぎ続けていたのだそうです。
 そして僕たちはまもなく「海の秘密」を学ぶことになるのです。それはとてもシンプルな真実ですが、それでいて僕たちの生活の中心にしっかりと根付くほどのものです。それは「海はいつも僕たちを気分よくさせてくれる。そして海は僕たちの魂を高める絶対的な力を持っている」ということです。しかも僕たちがすることはただ海に身を任せればいいだけです。今でもその当時のありふれた毎日の影響がとても大きいことに気づかされることがあるし、今ある自分はこの基本的で簡単で素朴な事実に気づいたおかげだと思っています。


 毎夏、クイーンズ・サーフ・ビーチに行くことが家族の恒例でした。そこで親戚たちと会い、一日中ピクニックをして楽しみ、疲れ果てて砂まみれで帰り、翌日もまた同じようなことを繰り返すのです。僕の父はホノルル・アドバタイザー紙という朝刊紙のはえぬきの記者で、朝刊に間に合うよう夜に仕事をするので、昼には自由な時間がありました。母は教師だったので、僕たちと同じように夏休みがありました。だから家族は、毎日昼間はビーチで過ごしました。子供時代は、それが毎年の夏の過ごし方でした。

 ビーチの名前にまでなったような昔のハワイアンたちは、どのような夏を過ごしたのだろうと思うときがあります。僕たちと同じように海で遊んだのだろうかと。ビーチからすぐのところに有名なパブリック・バス・サーフスポットがあり、西にはボディ・ボーダーやパイポ・ボーダーたちがアシカやイルカのように波に乗っているザ・ウォールがあり、東にはナタトリウムという海水プールがあります。そのプールは、あの有名なオリンピックの金メダリストでもあるデューク・カハナモクが水泳を始めたところでもあり、そのちょうど外はビッグ・サーフ・キャッスル・ブレイクでした。

 ザ・ウォールのさらに西に行くとクイーンズ、ベイビー・クイーンズ、カヌー・サーフ、そしてパパ・ヌイ・サーフ・ブレイクス・オブ・ポピュラーズ、ナンバー・スリーズ、ナンバー・フォーズ、さらにその先にはカイザーズ、ロックパイルズ、アラモアナ・ボウルズ、ガーベッジ・ホールなどの上級者向けのサーフスポットがあり、アラモアナ・ビーチの前からシャーク・ホールとポイント・パニックまでとその脇のケワロ・バシン海峡の大きなサーフブレイクは、クイーンズやカヌーのように穏やかなものと違って、海岸から遠く離れたところでブレイクするため難しいのです。もっとも僕たちの時代はクイーンズ・サーフ・ビーチとザ・ウォール以外ではあまりサーフィンが盛んではありませんでした。僕の3〜4歳から12歳くらいまでは、このクイーンズ・サーフ・ビーチが僕たちの生活そのものでした。

 毎週日曜の夜、ルーアウ(訳者注:余興の伴うハワイ料理の宴会)が観光客用にそこで催され、その準備をしている午後には、僕たちはイームー(訳者注:焼け石で料理を作る穴)などその儀式的なものにいつも夢中になっていました。その穴に豚を入れ、土をかぶせて調理するのです。そして豚を取り出した後で、僕たちは豚を縛ったワイヤーのまわりに残っているおいしいかけらをこっそりいただくのです。僕の家族や親戚たち、友人たちに少しお酒が入り、いつもより遅くそこに行っても、ルーアウの後の楽しみがありました。観光客たちが帰り料理が片づけられる前に、僕たちは彼らが残したポイ(訳者注:ハワイの有名なタロイモ料理)とハウピア(ココナッツ・プディング)など、現地の人以外はほとんど食べないものをいただくのです。当時の思い出は今でも忘れられません。

 僕の叔母ミチコも教師でした。彼女の生徒のなかにビーチボーイズがいてミチコや母を誘い出し、レンタル・サーフボードを借りてサーフィンを楽しんでいました。僕はまだ10歳、弟は8歳でした。僕たちが向かったあの初めての波のことを、僕たちは今でも忘れることができません。ベイビー・クイーンズのバスタブの水のように暖かい海水を横切り、波をとらえたときの感動は決して忘れられないものです。弟は、僕より強くそう思ったにちがいありません。なぜなら彼の友達の父親がサーファーだったこともあり、2年後には自分のサーフボードを手に入れたのですから。
 そのボードはバルサ材でできていて、あまりの重さにひとりで運ぶのは難しいくらいのものでした。後に父が彼のために発泡スチロール製のボードを新聞社の友人に探してもらい、そのおかげで彼のサーフィンはもっと楽になりました。
 僕は、リトルリーグでの野球やヌイ・バレーの家の近くで魚を突いて捕るほうが面白く感じていました。弟のビクターのボードを借りてやったクイーンズ・サーフでの最初のサーフィン経験は、少し遅かったのです。ボードが僕の頭に当たり、数針縫うケガ(その後も何かとケガをしがちだった僕なのですが、このケガはその後の数百針の歴史の第一歩でした)のためにさらに2〜3年サーフィンから遠ざかり、その間僕は野球と読書(僕は本の虫でした)に夢中になったのです。